洋画の邦題はダサい?
けさヤフーニュースを読んでいると、何やら興味深い記事を見つけました。
なんと、洋画を日本で公開するときのタイトルいわゆる「邦題」が、どういうわけかダサかったり、映画のPRに映画と無関係なタレントを起用していたりするというのですね。
……そういえば、たしかにそうかも……。
ダサいかどうかはわかりませんが、とりあえず「邦題は原題とは違う」ということはきつねも認識していました。
また、確かにPRには本編とは関係の無いお笑い芸人が出てきたりします。
これは日本ではなじみのない洋画の世界観に、日本でお馴染みの人たちを使うことで興味を持ってもらうための戦略だというのはなんとなくわかるのですが、タイトルがどうして違うのかは確かに不思議なのですね。
これも戦略なのでしょうか。
気になったので記事を読んでみたのですね。
……見えてきたのは、何かを作ったり売ったりする時には必ずと言っていいほど直面するあの問題でした。
大衆受けVSマニア受け
記事によると、ダサいと言われてしまう邦題を付けるのはつまり「わかりやすさ」を重視しているようなのですね。
原題をそのまま日本語に訳しても、非常に分かりづらいものになってしまうようです。
- Fantastic Beasts: The Crimes of Grindelwald
- Frozen
- Pawn Sacrifice
- Arrival
……これは有名な映画や私の好きな映画の原題ですが、確かに見てもどのような映画なのかはイマイチわからないですね。
これだけを見て内容が想像できるのはおそらくかなりの映画マニアだと思われます。
なので制作側はわかりやすくするために(厳密に言うと映画館側の「わかりやすくしてくれ」という要望に応えて)敢えて原題とは異なる意味の邦題を付けるのですね。
そしてそれが一部の映画ファンたちからは「ダサい」「本質を損ねている」などと言われてしまうのですね。
ですが、大部分の人たちはあんまりそのようなことは気にしないようです……というより、そもそも原題と邦題がそれほど違っているということに気が付かないことの方が多いのですね。
具体的には原題を気にする人は1%くらいしかおらず、残りの99%は気にしないのだそうです。
また、原題を気にしないとはすなわち「原題(の直訳)を見てもよくわからない」ということでもありますから、この人たちにとっては「原題を忠実に踏襲したタイトル」よりも「わかりやすいタイトル」であった方がいいのですね。
そのため単純に数の問題となり、どうしても「タイトルを気にする1%の人」よりも「わかりやすいタイトルがいい99%の人」を優先してしまうようですね。
こ……これは……。
私が絵を描く上でよく悩む「大衆受けか、マニア受けか」とまったく同じことではなかろうか……。
私は動物の絵をよく描きますが、生物学的な知識を元に描くため、生物としての体のつくりは骨格から毛並みに至るまでほぼ完全に再現するのですね。
もちろんデフォルメしますが、それでも生き物として不自然になるようなやり方はしません。
……つまり、ネコなのに指を3本にしてみたり肉球の位置を変えてみたり、やたらと下半身の太い三角形の体形にしてみたり、タヌキなのに尻尾にシマシマがあったり、なぜか人間と同じように「上下に平たい」体形をしていたり……そういう一般的に言う意味での「デフォルメ」はしないのですね。
ただ、大変残念なのですが、みんなに人気があるのは「そういう意味でのデフォルメ」なのですね。
なぜならそもそも普通の人は生物学の知識なんてありませんし、動物の正しい体のつくりも知りません。
つまり、「体のつくりをどれだけ再現しているか」なんて気にする人はまずいません。
ごくわずかなマニアックな人は私の絵を見て「きつねさんは解剖学の知識がすごいね!」なんて言ってくれるのですが、あくまでそういう人はごくわずかしかいないのですね……。
……これは私の絵の話ですが、そのまんま映画タイトルのくだりと同じですね。
きっと私の絵も映画の原題と同じく1%の人たちにしか理解されないんだ、絶対そうだ!
マニアが困るマニア受け?
ただ、記事にはさらに面白いことが書かれていたのですね。
なんと、もしここでこの1%の映画ファンたちの主張に合わせて「マニアックな邦題」にしてしまうと、最終的に困るのは映画ファンたちだというのです。
というのも、「大衆に合わせてわかりやすい邦題にしてくれ」と言っているのは劇場側ですから、制作側がファンの意向を聞き入れてしまうと、劇場側はその映画を受け入れてくれなくなるかもしれないのですね。
つまり、「そんなわかりづらいタイトルで本当にお客さん来てくれるのかなぁ……」となり、結果として「ウチでの上映はちょっと……」となってしまうようです。
作品は放映するために十分なスクリーン数を確保することができず、結果興行収入が稼げなくなり、制作側(洋画ですから配給側)の収益が減ってしまうのですね。
そうすれば配給側でも「洋画=儲からない」という考えが一般化し、どんなにいい洋画が作られても「やっぱり出すのはやめておこうか……」となってしまいますね。
……そうすれば結局、困るのは映画ファン自身なのですね……。
映画というものは結局みんなが観てこそ維持できるものであり、そのためには多数派に合わせてタイトルを決めないといけないのですね……。
……きつねもみんなに合わせて「一般的なデフォルメ」を試してみようか知らん。
……ですがそれでは私の画風が崩壊してしまいますし、私の場合は特に劇場が渋ったりするようなことも(今のところは)ないので、これはこれでOKなのでしょう……たぶん。
こんなに違う?原題と邦題
さて……色々と書きましたが、そういえば上に挙げた映画について何も書いていなかったのですね。
ここから下は完全に「余談」になりますが、上の作品の原題と邦題の間にどれほどの違いがあるのか、またどうしてその違いが必要なのかを考えてみようと思います。
有名どころと個人の好みで適当に選んだ4作品なので大変恐縮なのですが……。
原題:Fantastic Beasts: The Crimes of Grindelwald
邦題:ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生
まず最初の作品から。
これはご存知「ハリー・ポッター」シリーズのスピンオフ作品である「ファンタスティック・ビースト」シリーズの2作目なのですね。
原題を直訳するなら「ファンタスティック・ビースト グリンデルバルドの罪」みたいなタイトルになりそうです。
「Grindelwald(グリンデルバルド)」というのは劇中に登場する悪い魔法使いの名前で、ハリー・ポッターシリーズにも登場するためシリーズを知っている人が見たら「ああ、アイツか!」となるのですね。
悪の魔法使いであるということはハリポタ本編でも描かれているので、ファンならば「グリンデルバルドが出てきて、何か悪いことをするんだな」とわかります。
ですが、知らない人が見たら「誰だよそれ」というかそもそも「ナニソレ」となってしまいそうです。
「Grindelwald」はドイツ系の人名で、スイスの地名でもありますが、日本人的には全くなじみがありません。
おそらく初めて見た人は大体がこれが「人の名前である」ということに気付かないでしょう。
劇中では前作の終わりに逮捕されて服役していたグリンデルバルドが脱獄し、仲間を集めて勢力を伸ばしていく過程が描かれているので、わかりやすく「黒い魔法使いの誕生」という邦題になったものと思われます。
残念ながら私の好きな色である「黒」は大体の場合において「悪」を連想させるので、これならなんとなく「なにやら悪そうな魔法使いが現れるのだろう」とわかりますね。
原題:Frozen
邦題:アナと雪の女王
きつね、この映画は結局見損ねてしまったのですが……アンデルセンさんの「雪の女王」が原作なのですね。
原題の「Frozen」は「魔法により世界が凍る」という意味と、「主人公姉妹の関係が凍りつく」という意味を掛けているようです。
ですがそれをそのまま日本語にして「凍りついた」などとしてもみんな「???」となってしまうため、原作のタイトルをとってこのような邦題になったのですね。
……昔NHKで「雪の女王」のアニメをやっていたのですが、それともきっと違うのですね……原作同じはずだけど。
なんにせよこの邦題は訳した人のセンスがにじみ出ているのですね。
日本でこの映画があれだけヒットしたのはこの邦題の影響も大きかったようです。レリゴー♪
原題:Pawn Sacrifice
邦題:完全なるチェックメイト
一気にマニアックな領域になります。
これは1970年代の米ソ冷戦時代を舞台とした、アメリカの将棋映画なのですね。
……つまり、主人公はチェスの棋士なのですね。ちなみに「スパイダーマン」のトビー・マグワイアさんです。
当時はスポーツや芸術、果ては宇宙など、あらゆる場面でアメリカとソ連がしのぎを削っており、お互いに「打倒ソ連」「打倒アメリカ」と燃え上っていたのですね。
そしてチェスの業界においてもまた、お互いにライバルを倒そうと意気込んでいたのですね。
そして両国政府はライバルをチェスで倒すためにそれぞれ腕利きの棋士を用意し、彼らを戦わせ、「盤上の米ソ戦争」が繰り広げられるのですね。
この2人の棋士の苦悩と葛藤を描いているのがこの映画なのですね。
少々地味で、また相当マニアックな映画ではありますが、きつね、なかなか好きです、これ。
原題の「Pawn Sacrifice(ポーン・サクリファイス)」とはチェス用語で最も弱い駒である「ポーン(歩兵)」を戦術のためわざと相手に取らせる……いわゆる「捨て駒」にするということです。
将棋でいう「突き捨ての歩」……かな?
棋士にとっての「捨て駒」は自分の仲間である「駒」を作戦のために犠牲にしなければならない「苦渋の決断」ですが、一般的な意味での「捨て駒」とはすなわち「目的のために使い捨ての道具にする」ということなのですね。
……つまり、「アメリカとソ連が、それぞれの国のプライドを守るため、棋士たちを道具として使い、戦わせた」ということなのですね。
……なかなか深い意味を持つタイトルなのですが、そのまま「突き捨ての歩」などと訳したとしても、チェスや将棋を知らない人からしてみれば「???」となってしまうのですね。
……なんとなく「将棋映画なのかな?」ということくらいはわかるかもしれませんが。
そこで、意味はともかく少なくとも言葉だけは日本でもお馴染みな「チェックメイト」というワードを使い、「完全なるチェックメイト」という邦題にしたようです。
……これはさすがに少々ダサい気もします……チェス=チェックメイトって……。
でも少なくともこれなら「チェス映画である」「完全と付いているからには何やらすごい棋士がすごい必殺技を繰り出してライバルを倒したのだろう」ということがわかるのですね。……「僕は敵を殺(や)る」。
確かにわかりやすいですし、主人公である「アメリカ代表の棋士」はライバルである「ソ連代表の棋士」に「すごい必殺技で勝つ」のですが……このタイトルだと単に「主人公がライバルに勝った!」ということが強調されるだけで、物語のテーマである「国によって利用された棋士たちの苦悩と葛藤」が隠れてしまっていますね……。
……しょうがないけど!
……余談ですがこの2人の棋士の対決はチェスをやる人にとってはあまりにも有名な話なのですね。
きつねもこの時の2人の棋譜をダウンロードしてしまいました。だってWEBで公開されていたんだもん……。
また、こうやって国同士がチェスで勝負を決められるのなら戦争なんてやめていっそいがみ合っている全ての国がチェスで決着をつければいいのになんて考えてしまうのですが、そういうわけにもいかないようです。
原題:Arrival
邦題:メッセージ
これは中国系アメリカ人のテッド・チャンさん原作「あなたの人生の物語」を映画にしたものなのですね。
世界各地に謎の巨大ばかうけ……じゃない、宇宙船が現れ、アメリカ軍大佐、物理学者、そして主人公の言語学者が船に乗っていた未知の知的生命体とのコンタクトを試みます。
宇宙船に乗っていたのはタコともイカともつかない「7本足」の宇宙人で、「スミ」を吐いて「表意文字」を作り、地球人に何かを伝えようとするのですね。
言語学者である主人公はこの文字の解読を試み、やがて彼らの言葉をマスターしていくのですが、お話は意外な方向に展開していくのですね。
また余談ですがこの宇宙人、「七放射相称」の体を持っているのですね。
つまり、体の構造としてはタコやイカというより、ヒトデやウニに近いのですね。
地球上にはヒトデやウニなどの「五放射相称」の動物がおり、化石種を含めると「三放射相称」まで確認されていますが、「七放射」は発見されていません。
生物好きには非常に気になるデザインの宇宙人(というよりどちらかというと動物)なのですが、とりあえず当時私は「言語学がらみ」の映画だと聞いて観に行ったのですね。
なんにせよ原題は「Arrival」……「到着」なのですね。
少しひねったとしても「訪問者」といったところでしょうか、裂空の。
どっからどう見ても「メッセージ」とは異なる単語ですが、意味としては「宇宙人が地球人に何かしらのメッセージを伝えるために地球に来た」というふうに解釈できると思うので、「メッセージ」という邦題は的を射ていると思われます。
なお、「宇宙人が表意文字を使う」という設定は、原作者であるチャンさんが漢字を使う中国人だからこそ思いついたものなのですね。
映画でもスミで書かれた宇宙人の文字がちょうど筆文字を連想させる、1つの文字が1つの文章を表し「漢字」に似ている、など、色々と「東洋」を意識しているのですね。
また、巨大な宇宙船がお菓子の「ばかうけ」に似ていることが話題になり、最終的には本当に「ばかうけ」の製造元である栗山米菓さんとタイアップしてポスターまで作ってしまったのですね……感動的な映画がすっかりコミカルに!
ところで、洋画のタイトルと言うものは大抵の場合において邦題ように変更されるようなのですが、中には例外もあるのですね。
原題:Zootopia
邦題:ズートピア
原題:Pixels
邦題:ピクセル
などはそのまんまです。おそらくこれらは原語圏と日本語圏とでそのタイトルに対するイメージが共通していたため、特に違う言葉にする必要が無かったものと思われます。
わかりやすくていいや。
……長々と書きましたが……、映画の「タイトル」の世界、奥が深いのですね……。
やはり「大衆受けかマニア受けか」は映画タイトルや絵に限らず、製造業、販売業、果てはブログや恋人へのプレゼントの目星を付ける時に至るまで、あらゆる業界にとって永遠の課題なのだろう。
この「大衆⇔マニア」間の自分の立ち位置を常にパラメータとして調整し続けることにより、きっと何処かに「落としどころ」を見つけ、「人気」への扉が開かれるに違いない!
私もしばらく悩み続けることにしましょうかね……。