何とはなしに、きつねとコーラ。

管理人のきつねとその相棒のべっつりコーラが、日々の出来事について思ったことや感じたことをただ淡々と述べていくだけのブログ。

「天才」なんて嘘っぱち!「才能」という言葉を安易に使う危うさについての考察

才能、才能、うるさいのう!

才能……。


……忌々しい言葉ですね。きつねはこれが大嫌いです。


勉強だのスポーツだの趣味だの、なんだってそうなのですが、そこに「上達」や「技術」が絡むものの話をするときにはどういうわけかみんなこの言葉を使いたがるのですね。

周りの人はもとより本人までも。

おそらく自分が今夢中になっていることや、仕事にしていることに対して「私はこの才能があるのだろうか」などと悩んだことがない人はいないでしょう。

また、逆に自分の近くに何かに夢中になっている人や、仕事のできる(できない)人がいた場合、おそらく殆どの人が「こいつには才能がある(ない)」などと言うでしょう。

私は絵を描きますが、私の絵描き仲間の中にも「自分には才能がないから……」だとか「~さんは天才だ!」だとか言う人が大勢います。

何やらみなさん割と気軽に使っているのですね。

ですがこの言葉の使用は常に大いなる危険をはらんでいるのですね。
本来ならば使う時にはかなりの注意が必要な「取り扱い注意ワード」なのですね。


また、結論を先に言ってしまいますが、「自分に才能があるかないか」なんて実は悩む必要もないことなのですね。


どういうことでしょうか。

詳しく見ていきましょう。


才能とは?

まず、前提として……。

「才能」という言葉は非常に意味が不明瞭で曖昧なものですね。

単に訓練で身に着けた能力……いわゆる「スキル」という意味で使われる場合もありますし、「素質」や「資質」のような、もっと根本的な意味で使われることもあります。

ですが曖昧なままでは記事になりませんから、ここではみなさんの「使用例」から何らかの共通の意味を見出すこととしましょう。

おそらく多くの人が言う

「あの人は〇〇の才能がある」

だの

「〇〇をやるには才能が必要だ」

だののフレーズでの意味では

「その人が生まれ持っている〇〇を行うために必要な能力」

というようなニュアンスでしょう。

なのでこの記事ではその解釈を採用することとします。


……少しは具体的になったようですが、実はこれ、まだまだ相当曖昧なのですね。

たとえば上の「〇〇」の部分になにか入れてみましょう。

私は絵を描くのが好きなので、大変恐縮なのですがここでは「絵」という言葉を入れてみます。

すると上の3つの文は以下のようになりますね。

「あの人には絵の才能がある」
「絵を描くには才能が必要だ」
「才能とは、その人が生まれ持っている絵を描くのに必要な能力」


……相当曖昧ですね。


「生まれ持った絵を描く能力」ってそもそも何でしょう。視力のことでしょうか。
ですがこの広い世界のどこかには「盲目の画家」なる人も存在しますので、おそらく視力である可能性は0に等しいでしょう。


では、何なのだろうか……。


……これらの「才能」というものが具体的に何なのか、言葉で説明ができる人はほとんどいないと思います。

いえ、むしろおそらく誰も説明なんかできやしないでしょう。

その理由は後述しますが、なんにせよ「才能」という言葉はこうまでも曖昧で意味が不明瞭なものなのですね。


……少し考えてみればわかることですが。


また、当然ながらこれは「才能をたくさん持っている人」や「ものすごい才能を持っている人」のようなニュアンスで使われる「天才」という言葉に対しても当てはまります。

当たり前ですが「才能」の意味が明確ではない以上、「天才」も非常にあいまいな言葉になるというのは火を見るよりも明らかですね。

「なんだかよくわからないもの」を「たくさん持っている人」……結局どういう人なんだよとツッコミを入れたくなります。


使った途端に即、思考停止

では、その「曖昧な言葉」であるところの「才能」や「天才」を実際に使うとどうなるのでしょうか。

……実はほとんど害悪しか無いのですね。

大体こんな感じでしょうか。

・上達する(しない)本当の理由が見えてこない
・頑張っている人の可能性を潰す
・成功した人が謙虚さを忘れる
・できる人の努力を否定する

……まだほかにもあるかも……。


……とりあえず、上から順を追って見ていきましょう。


・上達する(しない)本当の理由が見えてこない

おそらくこれが全ての元凶だと思われます。

当たり前の話をするようですが……仕事でも趣味でも、何かをやっていると、当然ですが「上達が早い人」と「遅い人」が出てきますね。

ともすると我々は「上達が早い人には才能があり、遅い人は才能に乏しい」と思いがちですし、実際に「才能が~」などと言う言葉が出てくるのはおそらくそういう時なのだと思われます。

でも実際はできる(できない)の理由はもっと複雑で複合的なものなのですね。

まずはできない理由を挙げてみましょう。
たとえばこのようなものがあります……。

1.忙しくて勉強や練習の時間が取れない
2.時間をかけて勉強や練習をしているが、そのやり方が間違っている
3.勉強や練習をする時間はあるのだが、環境が整っていなくてできない
4.まったく不慣れな分野のことなので、その分野についての前提知識を身に着けるのに手間取っている
5.そもそも普段から「勉強」なんてしないので、「勉強のやり方」がわからない
6.そもそも上達する気が無い

……きつね、いま割と適当に挙げたのですが、それでもこれだけの理由が出てくるのですね。

そもそも上達する気が無いのはまぁ論外だとしても、忙しいので練習や勉強ができないというのは社会人ならばよくあることです。
勉強や練習ができない期間を数えてはいけません。

たとえば同時にお絵かきを始めた人がいたとして、片方は1年でかなり上達し、もう片方はそんなに上達しませんでした。

同じ「お絵かき歴1年」なのにこんなに差が付くなんて、どういうことなのでしょう。
「才能」に差があるのでしょうか。

実はそうとは限らないのですね。

1年で上達した人は、毎日4時間、練習に時間を割いていたのかもしれませんし、逆にあまり上達できなかった人は、1週間に4時間しか練習ができなかったのかもしれません。

つまり、両方とも同じ「1年」ですが、密度は大きく異なります。
この2人の「1年」を同列に扱うこと自体がそもそも間違っていますね。


また、実際は「時間」だけが問題なのではありません。
2番のようにせっかく時間を作って練習や勉強をしても、そのやり方を間違っていては上達はできません。

極論を言いますが、お絵描きが上手くなりたい人が腕立ての練習をしていたって上達するはずはありませんよね。


また3番のようにせっかく時間があっても、練習環境が整っていなければ練習の仕様がありません。
チェスの対局の練習をしたいのに相手がいないんじゃぁお話になりません。


4番は「事前知識」の話ですね。
ものすごく単純な例を挙げます。

たとえばあなたがこれから「プログラミング」を学びたいとしましょう。
プログラミングを行うにはパソコンが必要です。(この際「タブレットでもできるよ」などという意見は置いておきます。)

もしあなたが「パソコンに詳しい人」ならば、すぐに開発ソフトを入れ、プログラミングの練習を始めることができます。

ですがもしあなたが「パソコンに疎い人」ならば、開発ソフトのインストールどころか、キーボードやマウスの使い方も知らない可能性があります。
なので最初はパソコンの使い方から勉強しなければなりません。

断っておきますがあくまで両方とも「プログラミングはこれから始める」前提です。

……これはかなり単純化した例であり、実際はもっと複雑ですが、この時点で大きな差が出てくるのは明白ですね。


5番も少し上と似ていますが、物事を「学ぶ」にはそれなりの「学ぶ技術」が必要です。

……つまり、何かを覚えるにしても、覚え方というものがあるのですね。
物の本質……覚えるべき事の「意図」がわかっていれば、正しい覚え方というのもすぐにわかるものです。

……というとわかりにくいので、ちょっと単純で極端な例を挙げてみましょう。

例えばここに動物が描かれたカードが6枚あるとします。
それぞれイヌ、イルカ、キツネ、シカ、ネコ、ブタが描かれています。

あなたは指示されてこれを今から2つのグループに分け、30分間どれがどのグループになるのかを覚えておかなくてはならないとしましょう。

そして30分後にイルカ、シカ、ブタは青い箱に、キツネ、ネコ、イヌは赤い箱に入れなければならないとしましょう。

そしてその指示は今、口頭で「1回しか」言われません。
もちろんメモを取ることも不可能です。

……するとどうでしょう。

全部丸覚えするとしたら、「1回だけ口頭で」言われた「6匹の動物の名前と対応する箱の色」を、そのまま30分間も覚えていなければなりません。
単純に考えて名前と色のペアの情報を6つも覚えておく必要がありますから、かなりしんどいですし間違える可能性もありますね。

ですがこれ、実は簡単な覚え方があるのですね。

……「ネコ目は赤、偶蹄目は青」です。

ネコ目とはイヌやキツネ、ネコやアザラシなどが属する分類階級ですね。いわゆる「肉球を持つ動物」です。
……アザラシは長い間海で生活していたため、もはや肉球は退化していますがこの仲間ですね。

対する偶蹄目(鯨偶蹄目)は、イルカやシカ、ウシやブタなどの「偶数の蹄をもつ動物」が属するグループです。
……イルカは長い間海で生活していたため、もはや蹄は退化していますがこの仲間です。

なんにせよ、これなら覚えるべき情報は2つだけで済みます。
つまり、「赤と青に分けたい」という指示の「意図」は、実際は「ネコ目と偶蹄目に分けたい」ということだったのですね。

もちろん「事前知識」として「分類学」の知識があることが前提になりますが、たったそれだけでこの問題はこうも簡単に対処できるようになってしまうのですね。

……こういうことにいち早く気づき、速やかに簡単に覚えるやり方を「覚える技術」というのですね。
これを知っているかどうかで物事の覚えやすさは大きく変わってきてしまいますし、もちろん上達の早さにも関わってきます。

今のはもちろんまるで知能や認知機能のテストの問題のような極端な例でしたが。


……さて、「できない理由」を簡単に挙げてみました。

では次は「できる理由」ですが、これは今更言うまでもないでしょう……「できない理由」の「逆」を考えればいいのですから。
つまり、

1.勉強や練習の時間が確保できている
2.時間をかけて正しいやり方で勉強や練習をしている
3.勉強や練習する時間も練習環境も整っている
4.慣れ親しんだ分野なので、「事前知識」はバッチリ
5.普段から勉強が得意なので「勉強のやり方」を知っている
6.そもそも大いに上達したがっている

……となるのですね。


なんにせよ「上達する人としない人」の大きな違いは実はこのようなものなのですね。……本当に大雑把ですが……。

実際はさらに細かい違いがあるものと思われますが、いずれにせよこれらの違いがわかったのならば、その違いを埋めるように勉強時間なりやり方なりを改善していけばそれで済む話です。

ですがここまで掘り下げて考えることもなく、「上達できた(できなかった)のは才能があった(なかった)から」などという短絡的な結論を出してしまったとしたらどうでしょう。

上達するのが遅い人は「自分には才能がないから上達が遅い」と思い込み、上達しない本当の理由を探ることを止めてしまいますし、結果本当に上達できなくなってしまいますね。

この時点で「才能」という言葉を気軽に使うとどうなるか……大体わかってきましたね。

 

・頑張っている人の可能性を潰す

さて……もう十分危険性がわかった気もするのですが、次です。

これは上と少し似ていますね。

上にも書いた通り、上達の遅い人は本当は勉強のやり方を間違っていたり、環境が整っていなかったりといった理由があって上達できないだけなのですね。
(もちろん最初から上達する気が無い人は論外ですが。)

つまり、逆に言えばそれらの問題を克服することができればちゃんと上達していくことができるのですね。

ですがそういった事実から目を背けて自分には才能がないと思い込み、諦めてしまったらどうでしょう。

また、逆に本人は上達できないのには理由があり、決して才能のせいではないということに気づいていたとしても、周りが「オマエには才能がない、もう無理だ」「やめておけ」などと言って辞めさせてしまったとしたら……?


……頭ごなしに否定した人たちの罪は重いですね。


そもそも「遅い人」に才能があるかないかだなんて、赤の他人にどうしてそんなことがわかるのでしょう。

「才能」などと言う言葉が出てくる時点で、その人は「遅い人」が上達できない本当の理由を考えてもいないのですね。
本当に「遅い人」のことを考えてくれていて、その人のことをよく知っている人なら、その人が上達できない本当の理由に気付けるはずです。

それができないほどその人のことを「知らない」人たちに、その人に才能がないなどと言う根拠や資格があるでしょうか。


……答えはNOです。


そのような台詞は間違っても言うべきではありません。


・成功した人が謙虚さを忘れる

また、上に書いたこととは逆のことも起こるのですね。

単に事前知識や環境や練習時間があったから上達できた人でも、周りが「あなたには才能がある」などと言ってちやほやするうちに、いつしかその事実から目を背けて「自分は特別な人間だ」などと思い込んでしまう可能性もあります。

……もちろん周りが何も言わなくてもそう思い込みたがる人も中にはいるでしょうが。

そうやってうぬぼれていった人たちや、その周りの人たちがその後どうなったかは……歴史が教えてくれていますね。


・努力した人の努力を否定する

上の項目とはさらに逆のことを言うようですが、これは「上達できた人」が上とは違い、謙虚な人だった場合に当てはまります。

つまり、本人が「自分はごく普通の人だからここまでできるようになるにはかなりの訓練が必要だった」……と思っている場合なのですね。
言い換えれば「ここまでの訓練のたまもので今がある」ということです。

ですが本当はものすごい努力をしてきたからできるようになったことでも、「あなたには才能があるから」と言われた時点でその努力を否定されたことになるのですね。

つまり、努力して上達した人に向かって言う「あなたには才能がある」は、「あなたは才能だけでやっている人間だ、努力なんてしていない」という意味に捉えられかねません。

もちろん相手に対して敬意を表すために「あなたには才能がある」「あなたは天才だ」などと言うぶんには問題ないと思うのですが、それがその後独り歩きして「~さんは天才だ」「~さんはどうしてあんなことができたのだろう……天才だからだ!」などともはや半ば神格化されてしまうと、誰もその人を超えようとはしなくなってしまいますし、その人が「原点にして頂点」ということになりかねません。


「原点にして頂点」とは、すなわち「それ以降その分野は進歩が無い」という意味ですね。


勉強や練習を重ねて得た技術というものはみんなで共有できてこそ1つの体系として成り立つのであって、「特別な人にしかできない」ものは「技術」とは呼べません。

ですが本来ならば「誰にでもできるはずのこと」だったとしても、そのように先人が神格化され、さも「特別な人」のように扱われてしまっては、その人の技術も「特別な人にしかできないもの」と扱われてしまいますし、誰もその技術を学ぼうともしなくなります。


これでは技術体系そのものが破綻してしまいますね。


神格化や崇拝はされた方も迷惑ですし、した方は即思考停止に陥ります。

どちらにとってもいいことなどないのですね。

「天才」という言葉は本人の能力に関係なく、所詮「周りの人たちが勝手に言っているだけ」の「根拠のない空虚な言葉」です。

そして何の根拠もないその言葉が、やがて語り継がれていくうちに尾ひれが付き、誇張され、皆がその人を「絶対に越えられない神」だと信じ込む。

……こんなことに一体何の利益があるのでしょうか。


曖昧なのに、あなたを支配する

さて……もはや「才能」などという言葉には使うメリットなど無いということがわかってきました。

意味は至極曖昧な言葉なのに、そのくせ人の行動を支配し、場合によってはその未来を大きく狂わせてしまう、非常に危険な言葉です。

「才能がない」の名のもとに、今まで一体何人の「才能がある人」が悩まされ、一体いくつの「才能の芽」が潰されてきたのか、誰にもはかり知ることはできません。

ですが上にも書いた通り、言葉そのものには根拠も具体的な意味もありません。

根拠のないもののために自分の未来を諦めるなんて、どうしてそんなおかしなことをしなければならないのでしょう?
根拠のないもののために誰かの未来を諦めさせるなんて、一体誰にそんな権限があるのでしょう?


もはやこの言葉には害悪しかないのだろう。
どうしてみんなこのような曖昧なものに自分の未来を預けるのだろうか。


そういった意味では、先日の記事に書いた「馬鹿」という言葉と同じなのですね。

「馬鹿という方が馬鹿」

というお決まりのフレーズの意味を考え、結果これは

「相手の行動の理由を理解しようともしないで、頭ごなしに否定するのは愚かである」

という戒めの言葉なのではないかという結論に達したのが先日の記事でした。


もしかすると「才能」も同じで、

「才能がある(ない)という方が馬鹿」

なのかもしれません。


また、ここまで散々いろいろ書いてきましたが、実は「才能」や「天才」というものは、最近の研究により既に存在が否定されているのですね。

これらのページに詳しいことが書かれています。

https://courrier.jp/news/archives/89821/

https://note.mu/kc320/n/n1abf01234382


詳しくはこれらの記事にお任せすることにしますが、大事なのは生まれつきの能力ではなく「学ぶ環境」であり、まずは環境を整えることが大事なのですね。


なんと、そもそも「才能」など存在しなかったのですね。


これならみんなが説明ができないのも納得です。
そもそも存在していないものを、一体どうやって説明できるのでしょう。

私には「才能」などという言葉は、「上達」というもののメカニズムを知らない人たちが自身を納得させるために「上達の早い遅い」の理由を無理やり説明しようとして勝手に言っている「害悪だらけの言葉」にしか見えません。

実際は上達というのはパズルを解いていくようなものなのですね。
パズルというのはジグソー……ではなくて、知恵の輪やチェスのタクティクスのようなものです。

つまり、「一定の手順に従って順番に学習や練習をこなしていくことにより、初めてできる」ものなのですね。

順番を間違えたり、やり方を間違えたりすれば上手くいかないのは当たり前ですし、それは決して才能のせいなんかじゃありません。
単にやり方を変えればいいだけのことです。

ですがとても残念なことに、今でも「才能神話」をまことしやかに信じ込んでいる人たちがたくさんいるのですね。

絵の世界なんてまさにそう……多くの人がいまだに「絵は才能で描くものだ」「できないのは才能がないからだ」「私に絵の才能なんてあるのだろうか」などと言っています。

おそらく絵は技術体系としてはあまりにも複雑で抽象的なので、これらが実際はパズルのように論理的かつ具体的な「技術」であるという理解が広まっていないものと思われます。

また、絵が技術であるということが理解されていないがゆえに、「具体的に技術的な絵の描き方を解説してくれる書籍」も少ないのですね。

殆どが「これを真似して描いてください、才能があればできます」「ここはこうしてああして……わかりましたね?才能があるのなら」みたいなものばかり……。


自分で言葉にして具体的に説明できないものを、人に教えることなんてできやしませんし、言葉で説明できないものはどうしても才能神話や精神論になりがちなのですね。

その時点で「自分には指導者としての資格はない」と言っているに等しいのですが、そのような人に限ってこんな言葉を使いたがるのですね。


またこのような言葉を使うこと自体、人を「生まれつきの性能」で選別し、ランク付けするカースト制度的な考え方を肯定していることになります。
一体何の権限があってそのようなことが言えるのでしょう、相手のことをろくに知りもしないのに。


……だから私はこの言葉が嫌いです。


具体的に言葉にできず、その存在の根拠すら無い。


そんなものに振り回される必要はありません。